友人と食の話題をするときには、どこどこの店がおいしいとかいうことよりも、脂が胃にこたえるとか大盛りはもう欲さないとかいう話題が多くその割におかなポヨポヨの僕です。
皆さまお久しぶりです。健康に気を遣うなら、カロリーはもちろん、塩分と脂質にも気を遣いましょう。
さて、最近めっきりTVを見なくなったなと思うですが、単純に家にいる時間が短くなったとか、面白いと思う番組が少ないとか、そういった理由なのか。実際のところはわかりませんが、地震直後のニュースを見ていたら、まだTVってメディアとしての役割をちゃんと担っているんだなと思ったのを覚えています。もう1年経ちますね。
TVに関して、最近気になるのは「嫌なら見るな」という意見・考え方に関する議論。
これは割りと前々から面白いと感じていました。
この問題に関し、何か良い解決策はないものかと考えてみたのですが、これがなかなか難しい。
というのも、「嫌なら見るな」という提供側の意見も、それに対する「提供しているのにその言い方は何だ」という反論も、どちらもまあそうだよなあという風に感じるからです。
そして両者とも「うーん、正論なんだけど何か違和感があるんだよなあ」という部分が拭い切れません。
ちょっと場合分け(この言葉懐かしい)して考えてみました。
・提供側の主張(TV局、タレントなど)
1. テレビ番組は他にもある。選択肢は他にもあるのだからそちらを見れば良い。
2. 受けての意見を取り入れすぎた結果TV番組の内容は自由度が下がり、TVは面白くなくなった。
3. そもそもTVの他にも娯楽は多く存在する。インターネットでも良かろう。
あくまで主観的ですが、こんなところでしょうか。じゃあ次はその逆。
・受け手側の主張
4. 提供側は受けてありきの仕事なのだから自慰的に提供すべきではない。
5. 見たくもないものを見てしまう可能性があるのは明らかなのに、「嫌なら見るな」という論は自分勝手だ。
(そんなもの見せつけられた方の気持ちも考えろ)
6. そもそも偉そうな態度が気に食わない。
こちらも主観ですが、こんなところでしょうかねえ。
ここで、両者の理解に齟齬が生じるのは、「選択肢」に対する両者の意識の違いではないかなと思います。
TVに限りませんが、提供側はもちろんスポンサーからお金をもらったりして成り立っています。そしてスポンサーは受け手である人たちへの宣伝の見返りとして援助します。そうした構図は無視できない以上、「嫌なら見るな」という意見を自分勝手だと批判するのはもっとものように思えます。
では、選択肢はたくさんあるのだから、他を選べば良いという主張はどこがおかしいのでしょうか。
近年では、選択肢の数は巨視的には確かに増大しました。でも、そこに個人の趣向等が入ってくると、それほど個人レベルでは選択肢が増えるわけではないように思います。
(つまり巨視的に選択肢の数が10倍になっても、個人個人の選択肢は10倍にはならないだろうという予想。)
冒頭で述べましたように、その影響力こそずいぶん小さくなったものの、TVは未だに情報供給の道具として、メディアツールとして大きな影響力を有しています。
そんなことないよと一笑に付されるかもしれませんが、ネットでブログを御覧のみなさま、世の中にはインターネットがつながっていないご家庭も、TVが一番の楽しみという方もたくさんいらっしゃるのです。ほんとに。
ということで、選択肢の数は増えても各個人に対する重みはあまり変わらず、選択肢としての存在価値はそれほどまでには低下していないのでは、と予想されます。
(個人・個体の集まり=集団という考え方は、社会学的にも物理学的にもおかしいという指摘があるかもしれませんが、この場合はその論すらイマイチ当てはまらないように思います。)
このままでは「嫌なら見るな」という論は全体的におかしいという結論になりそうですが、受け手側の主張に違和感がある点を上げるとすれば、これは僕の考え方なのですが、「選択」は「安全」ではなく「リスク」に対してなされるものだということです。
つまり、「どの安全を選択するか」ではなく「どのリスクを選択するか」の方が、重要なのではということです。
選択肢が増えたことと同様の原理で、今は多くの情報があります。
そして、初めてすること、苦手なこと、もっと上手にやりたいこと、などなどに関して、ポジティブなアプローチとネガティブなアプローチがあります。
ポジティブは「これをすると上手くいきます。」ということを行うアプローチ。
ネガティブは「これをすると失敗します。」ということを行わないアプローチ。
原理的には同じだと思いますが、情報が増えたことによって、後者のアプローチの存在がすごく顕著になったように感じます。つまり、失敗しないためにたくさんの情報を手に入れられるようになったこと。
これはとても素晴らしいことです。しかし、失敗しないために情報を手に入れることは、「安全を選択すること」とは決して同値ではありません。それは「どのリスクを選択するか、したか」という観点で評価されるべきだと常々思っています。
そうでないと、(意識的か田舎に関わらず)あくまで自分が選択した方法に対して、「自分が選択した」という意識と「リスクが0であるような選択はほとんど存在しない」という意識が欠如しがちになるように思います。
(そもそも後者のアプローチが顕著な理由は、成功例に対し失敗例のほうが容易に見つけられるため。そして貴重な情報ほど、その比率はどんどん失敗例が多くなる傾向があること。これと「安全ではなくリスクを選んでいる」という認識は、そもそも選択とはあくまで個人レベルで考察されるべきという結論を促すものだと考えます。それがどういった動きになるかというのは個人レベルで議論するのは難しそうですが。)
需要が先か供給が先か、どちらが優位でどちらが劣位か、そういった議論は感情的になりがちです。
それに対し、提供することの価値の変化・変遷や選択という行為への理解度を考察してみると、正論に思えた1~6の主張たちは、どれもそれほど正論ではなかったように思います。
「正しいっぽいこと」や「正論っぽいこと」を言える人はたくさんいます。でもそうした正論で、全く意見の異なる人を説得するのはなかなか難しいことです。(こいつバカだな、と相手を切り捨てることはとても容易です。)
偉人の名言集なんか割りとつっこみどころ満載なのに、多くの人の支持を得ているなんてこともよくあります。
自分の知識を誇示したいだけの正論にも、多くの支持を得ているけどあまりにも滅茶苦茶な理論も、同じくらい警戒するべきだと思います。こういうとなんだか精神論と言うか宗教みたいですが、その中間くらいのところに落とせる人って結構いるんですよね。人当たりがいいというか。そういった人の魅力みたいなものを、わかりやすく(論理とまでは行かなくても)形にする方法ってないかなと考えています。
なんだか、全然関係ない話になってすみません。
あとがき
この記事は割りと論の展開に無理な所があったなというか、やや主観的に展開した気がします。
たとえこの論が優れていたとしても、それを全体的なレベルに落としこむのはまたさらに難しい気がします。